温故知無新
昼食の支度をしているとふと浮かんだ。
新しいものを生み出したいという愚かな文句は、果たして故きを温めた人物でも思うことがあるのだろうか。
「新しいものを作るという発想がもう古い」という、どこかの美大の教授の言葉が生徒に授けた言葉が先日話題になった。いや知らんけど。少なくともどこかのニュースサイトに掲載されていた。
その言葉自体は、ある程度創作に勤しんだ経験があればみな理解できるだろう。音楽は音階に縛られフレーズは出尽くし、物語は問題提起とその解決に終止する。絵画なんて画材が限定されるのだからもうどうしようもない。
ひとつ道があるとすれば、音楽小説美術、あるいは他の名前のついた創作行為、それらに属さない別種類の創作を成立させることだろうか。創作として認められることは中々ないだろうが、ソフトウェア開発なんかは一種の新規創作であると思う。
けれどそういった道を開拓したい人はそもそも芸術系の大学に行かないだろう。だって、芸術・創作として認知されていないのだから。大学に行ってもやることがない。
何らかのジャンルに属しているという時点で、自分は場合分けの中にいると自覚するべきである。
……そういえばこんな内容のことを書く予定ではなかった。
ひとまず今回書き残しておこうと思ったのは、「新しいもの」なんて言葉を軽々しく使える創作者は、大してその分野に対する知識のない、もとい過去へのリスペクトのない人物なのではないかという疑念が湧いたことだ。
別に、リスペクトがないというのは人格否定までしたいわけではない。つまりは未熟なのだ。最初から熟していることはないのだから当たり前だし、足りない知識は学んでゆけば良い。ただまあ、その時点では狭い世界にいる、つまんねえ奴だなと思った。
ただまあ感想なら思うだけで書く必要もないのだ。
気になったのは、この結論は私の観測範囲内の話であって、「新しいものを作りたい」と言っている誰しもに対して尋ねたことはないのだから、もしかしたら、ジャンルに属し故きを温め、新しきが無いことを知り、それでもなお「新しいものを作りたい」と言える者がいるのかもしれない。
それが良いことか悪いことか、きっとその人を目の前にするまで結論は出ないのだと思う。ただ、そんな人がいたら面白いだろうなと、そうも思った。