Tenaの制作日記

制作中のものについて適当に書きます。

12.24

 真の寛容は無意味だが、芸術は寛容であるべきで、ならば芸術は無意味なのだろうか。

 そんな感じのことをふと思ったので思考整理用に日記をつける。

 

 寛容が無意味というのは、博愛が何も愛していないのと同じとかと似た話で、何でもかんでも受け入れて許すのならば「許す」という行為そのものが存在する意味がなくなるからだ。

 していない状態がなければ行為は言葉として生み出されることはない。なんなら、そのような「行為」は想像することもできまい。

 

 芸術が寛容であるべきというのは、私の個人的な思想だから真理ではないかもしれない。芸術というか、創作という言葉のほうが正しいだろうか。まあなんであれ、その人が「これは芸術です!」と心から思うのなら、誰がなんと言おうとそれは芸術なのだと思う。

 個人的な思想の部分についてより書き記すのであれば、寛容であるべきというより、否定をするべきでない、というほうが正確かもしれない。否定をすることは自らの可能性(あまり好きな言葉じゃない)を狭めることだ。あなたは億万長者になるかもしれないし、地球外生命体と初めて友好を築くかもしれないし、人殺しになるかもしれない。

 

 この辺まで言語化したことで段々と整理がついてきた。

 いつものアレである。そもそも論である。

 そもそも、芸術に意味なんてものを大して求めてはいなかった。芸術は無意味なのだろうか……と不安がることさえ、別に必要なかった。

 しいて言うなら、「これは芸術です!」の一声さえあればそれで十分なのだった。

 

 疲れてたのかな。急に、意味がなければそれをしてはいけないって思想にとりつかれた気がする。今だけじゃなくて、ちょくちょく陥る。きっと世の中の思潮だから。

 クリスマスだ。幸せな気分の人が多い日。とてもよい日。認識は差異に依るから、幸せじゃない人は普段以上に、どこまでも不幸に染まれる日。今日という厄日があるから、他の日は少しでも心が安らぐという人もいるのだろう。とてもよい日。

 

 いつも日記の締めが分からなくなる。

 あれか夏休みの日記帳みたいにすればいいのか。

 

 なんかよく分からないけど、あれです、楽しかったです。明日もなんかしたいです。

温故知無新

 昼食の支度をしているとふと浮かんだ。

 新しいものを生み出したいという愚かな文句は、果たして故きを温めた人物でも思うことがあるのだろうか。

 

 「新しいものを作るという発想がもう古い」という、どこかの美大の教授の言葉が生徒に授けた言葉が先日話題になった。いや知らんけど。少なくともどこかのニュースサイトに掲載されていた。

 その言葉自体は、ある程度創作に勤しんだ経験があればみな理解できるだろう。音楽は音階に縛られフレーズは出尽くし、物語は問題提起とその解決に終止する。絵画なんて画材が限定されるのだからもうどうしようもない。

 ひとつ道があるとすれば、音楽小説美術、あるいは他の名前のついた創作行為、それらに属さない別種類の創作を成立させることだろうか。創作として認められることは中々ないだろうが、ソフトウェア開発なんかは一種の新規創作であると思う。

 けれどそういった道を開拓したい人はそもそも芸術系の大学に行かないだろう。だって、芸術・創作として認知されていないのだから。大学に行ってもやることがない。

 何らかのジャンルに属しているという時点で、自分は場合分けの中にいると自覚するべきである。

 

 ……そういえばこんな内容のことを書く予定ではなかった。

 ひとまず今回書き残しておこうと思ったのは、「新しいもの」なんて言葉を軽々しく使える創作者は、大してその分野に対する知識のない、もとい過去へのリスペクトのない人物なのではないかという疑念が湧いたことだ。

 別に、リスペクトがないというのは人格否定までしたいわけではない。つまりは未熟なのだ。最初から熟していることはないのだから当たり前だし、足りない知識は学んでゆけば良い。ただまあ、その時点では狭い世界にいる、つまんねえ奴だなと思った。

 

 ただまあ感想なら思うだけで書く必要もないのだ。

 気になったのは、この結論は私の観測範囲内の話であって、「新しいものを作りたい」と言っている誰しもに対して尋ねたことはないのだから、もしかしたら、ジャンルに属し故きを温め、新しきが無いことを知り、それでもなお「新しいものを作りたい」と言える者がいるのかもしれない。

 それが良いことか悪いことか、きっとその人を目の前にするまで結論は出ないのだと思う。ただ、そんな人がいたら面白いだろうなと、そうも思った。

ぅゎRTA小説っょぃ

 一昨年ぐらいからだろうか。小説投稿サイトのハーメルンでは、RTA形式の二次創作作品というものがひとつの人気ジャンルとして確立されてきたように思う。

 RTAとはReal Time Attackの略で、ゲーム界隈における、特定のゲームをどれだけ速くクリアできるかという文化だ。クリア条件はストーリークリアに限らず、一定のレギュレーションで目標を達成できればいい。

 ここで、何かしらの作品を題材にした架空のシミュレーションゲームを設定する。そのゲームについてRTAを行う様子を描くのが、RTA形式の二次創作作品というわけだ。

 

 ハーメルンで見たことがあるものだと、NARUTOやヒロアカ、ウマ娘、あとは題材とする作品すらオリジナルのものもあった気がする。

 ミソとなるのは、ただゲームのプレイ風景を描くのでなく、そのゲームの内容を現実のストーリーのように描くことだ。表現が難しいのだが、プレイヤー視点とキャラクター視点で2つの物語を同時並行に進めると言えば伝わるだろうか。

 RTA小説に慣れた人なら違和感もあるまいが、傍から見ると結構異常なことをしている。気付いてるか住民たち。まあこれが文化というものなのだろう。

 

 けれどもこのRTA小説、わりとピーキーなことをしているように見えて、人気を確立するだけの面白さを構築するロジックが存在する。

 今からひとつ、誤解ばかり生みそうな極端な表現を使おう。

 

 

 つまりは、RTAとはストーリーの本質なのだ。

 

 

 小説の、とまではいかない。本当は小説と書くつもりだったが、おさけの入っていない冷静な頭が待ったをかけてくれた。えらい。かしこい。

 ストーリーとキャラの魅力は、相互作用もあるが独立して伸ばすことも可能な部分だ。文章力などはさておき、ある程度まとも、もしくは魅力のあるキャラクターを描けて、しかしストーリーの組み立てに難があるという人は、一度はRTA小説を書けばいいと思う。かなり飛ぶぞ。

 

 私は絶対的に面白い話というものを語れるような人間ではないが、たいてい面白くなる、つまりは王道の物語構成についてはある程度分かる。

 それは、どこでも言われていることだが、問題提起とその解決だ。最も手軽なストーリー構成が課題解決型なのである。

 しかし、物語においてそれを自然に読者に提示することは難しい。銀魂では依頼者という形式を取り、ドラクエでは勇者・魔王という世に定着した概念から出発できる。けれどその提示方法は、もはや出尽くした。いまやどう提示しても「あの作品みたい」という言葉が付きまとうのだ。

 類似した作品に対して読者が狭量だとは思わないが、さもオリジナリティがありますみたいな顔をして提示する場合、見覚えがあれば飽きるし、時に不快感にすら繋がる。

 この話は長くなるからいつか別の時に話そうと思う。とにかく、自然な問題提起というのは難しいのだ。

 

 しかしRTA作品は、それをレギュレーション提示の時点で行う。

 あるいは、題名で行う場合すらある。

 

 もはやズルである。自然な問題提起? ゴールを一行目に定義できるのはズルい? いやいや、これRTA小説なんですよ。

 そんなわけで、物語の目標設定というものを読者はノータイムで理解することができる。ファンタジー作品なんかにありがちな冒頭50ページに渡る世界観・環境説明を待たずとも、物語の趣旨を理解し、主人公の目的を理解し、目指すべきゴールが提示されているために不安もなく、快適に物語に没入できる。ぅゎRTA小説っょぃ。

 

 そして、RTAにおいてチャートと呼ばれるプレイ指針。

 これは小説におけるプロットと完全に同義である。

 

 モデルがあるというのは、プログラミングにおいても、政治運営においても、あらゆる場面で最強の準備たりうる。

 しかし物語のプロットの立て方というのは、何故か知らないが馬鹿みたいに長ったらしく説明する文献ばかりで、初心者へ一言で説明する手段がなかった。これまでは。

 今は、ゲーム界隈のRTA文化を知っている人に対してなら一言で済む。──チャートを組み立てて下さい。

 

 チャートには、無駄なことはわざわざ書かない。けれど必要であればどんな細かいことも書く。(この必要・不必要の感覚が、モデルがないと意識しづらい)

 ここであのアイテムを拾って下さい。この道はこう進むのが一番速いです、操作難易度は上がりますが。ボスはこれとそれとそれを倒しましょう。

 ゲームというのはフレーバー要素を必ず含む。故に、純粋にプレイすれば不要なことを多く行う。故に、RTAにおいては不自然、異常、奇っ怪な操作が多分に含まれる。

 

 不自然。異常。これは、物語においては最高のフレーバーたりうる。

 一般人の日記を読んでもしょうがないのだ。どこかの漫才コンビが言っていたが、面白さは不自然さと共にある。

 

 飽きてきたのでそろそろ終わりにするが、まとめれば、RTA小説は小説において最も重要なことを最も自然に行い、経験がなければ組み立てられないものを容易に構築させうるというわけだ。

 文章力。語彙力。発想力。そういったものは経験を積み、学ばなければ身につかないかもしれない。だから、RTA小説を書けば必ず人気になるかと言えばそれは嘘になる。

 

 けれども、正直そんなものどうだっていいのだ。

 大切なのは、書き始めること、書いていて楽しいこと、その2つだ。

 目標設定とストーリー進行を自然に担ってくれるRTAは、上の2つのことを普通よりずっと平易にしてくれる。楽しく書き続けていれば、応援してくれる読者のひとりくらいは必ず現れる。応援されれば、筆が乗る。続ければ、力がつく。力がつけば、人気が出る。

 

 続ければうんたら以降の話はRTAに限った話ではないが、とにかく作品制作をよく補助してくれるという点で、RTA小説が増える理由はよく分かる。

 王道でも邪道でも、RTAでもなんだっていいから、面白いものが増えるのなら嬉しいと思う。また沢山の人が創作を始めて、いずれ自分のために生きるようになってくれたら随分と私にとって生きやすい世の中になると思う。

 なんか上手く締まらないから、まあとりあえずこの辺で。

9.5

 どうにも寝付くことができない。

 このところトラッキングソフトの制作に熱が出て、昨日からやや昼夜逆転気味になってしまっていることが原因だろう。

 マグカップ一杯のカフェオレ。これを飲みきるまでの間だけ、またひとつ能書きを垂れ流してみようと思う。

 

 先々週くらいまでの自分は、やや気負いすぎている部分があった。

 ある程度自覚はあったから自己管理能力を見直すほどではないのだが、気負い熱中しているに自分に酔っていたのだろうとは思う。まあ、今も酔っているには違いないのだけれど。

 

 酔いが冷めたのは、様々なものを賭して書いた作品を投稿し忘れていたことに気がついたからだ。

 あまりに下らなさ過ぎて笑ってしまったが、それまでの期間は感想の通知が一件も来ないことなどにやきもきしたもので、もしかしたらこの作品はつまらないのではないかと何度も心の中で内容を振り返った。

 自分の価値観には一定の信頼を置いているので実際つまらないということはないのだろうが、それでも際限なく振り返り反省し批判した結果、その作品の粗に気が付けた。今日は、そのことについて少しだけ書き残すつもりだ。

 

 結論から言えば、私は面白いものを作るつもりが、いつの間にか能書きを垂れ流してしまっていた。つまりは、この日記と大差ないものを書いてしまっていた。

 もちろん、そこにある程度の物語性はある。主人公がいて、周りの人がいて、設定された環境がある。話には目的があって、始まりがある。

 けれども厄介なことに、承認欲求というありふれた感情が作品に介入し、計算を狂わすことがある。これが作品の一部を陣取ると、多くの場合において作品は個人的なものになる。

 

 個人的なものが悪いとは思わない。そも、創作は自己表現なのだから、自分の言葉で書いた物語が、自分の目と手が描いた絵が、自分の耳と心が生んだ音楽が、そのいずれもが個人的なものでなくなることはない。

 ただし、いま言う「個人的なもの」とは、刺さる範囲が狭まる、同族の傷を舐め合うような作品になる、という意味だ。(傷を舐め合うという表現に貶める意図はない。だってそれは優しさで、愛だ)

 

 けれど私は、以前から言っていることではあるが、本当に面白いものはあらゆる種族の傷を舐めうると思うのだ。そんな作品を書きたいと思っているのだ。

 言い方は変わっているかもしれない。私の中のあらゆる価値観が肯定するだとか、色々な方向から語るけれど、本質は「本当に面白いものを信じること」に相違ない。

 

 論理的に考えれば無理な話である。他者の不幸を願う人間がいる世界で、誰もが幸せになることが叶わないように。

 だが願うのは自由である。目指すのも自由である。なんなら、「絶対は絶対に存在しない」というパラドクス(実はこれ解法があるのだが)の横行する現実で絶対的な面白さを否定することは愚かである。

 まあ面白さは価値観だから、絶対という言葉の対象じゃないって話でもあるけれど。

 

 さてカフェオレが無くなったのでこの辺で。

 眠気はあるんだけど、寝れる気がしない。ちなみに私の作るカフェオレはコーヒー:牛乳=1:1の砂糖なし。近頃牛乳の消費が早くて買い物が間に合わない。

8.24

 青草が香った。

 青匂とかタイトル付けてやろうかと思ったけど、読み方分からんし意味分からんし文字の並びも美しくないからやめた。しょうもないことばかり気にしている。

 

 こんな感じの日記みたいなものが最近増えたけれど、どうせ私が日記に書くことなんてどこか制作に囚われているのだから問題はないのだと思う。ただ、制作の記録ではないから制作記ではないよなとも思う。制作日記で良かった。これは日記だ。

 ひとつ悲しいのは、書こうとすると「記事を投稿する」という文字列をクリックしなければならないことだ。そういえばはてなダイアリーじゃなくてはてなブログだもんな、ブログなら記事だよな、なんて風に自分を納得させる。

 記事ではない。投稿すらするつもりはない。後者は嘘か。臆病な自尊心と尊大な羞恥心を教わったのは高校だったか。

 

 昨夜、夕飯を食べ終えるとノイズキャンセリングの優秀なワイヤレスイヤホンを耳に挿して布団に横になった。体の疲れを自覚していて、まどろむようにゆっくり眠りにつきたいと思った。

 最後に見た時計はたしか8時過ぎを示していて、次に目を開いた時は11時頃だっただろうか。早い時間に寝てしまうと、深夜に一度目を覚ましてしまいがちだ。部屋の掛け時計は一年前から止まっていて、枕元に置いた腕時計だけが自室で時を教えてくれる。

 けれどもこういったときのまどろみが好きだった。朝でないから起きる必要はなく、寝付きの悪い夜のような不快感もない。有り体に言えばこのときの私は最強だった。急に頭悪そう。

 

 もう一度まぶたを下ろすと小学生の頃に戻った夢を見た。夢に関する記録を残すことにいい噂を聞かないからこの程度の記述にしておくが、後味の悪い夢だった。ホラーっぽさはないが、小学生時代のトラウマがまだ癒えていないことを知った。

 中学1年生くらいの頃まで、私は本当にしょうもない人間だった。今がどうとかではなく、あの頃の自分に関しては断言できるのだ。

 

 目を覚ましたのは朝の4時だった。カーテンを引くと、外はまだ暗い。夏の4時なら明るくてもおかしくない気はしたが、曇っていたのだろうか。

 頭は冴えていたし、8時間眠って身体も癒えたことだろうと思えたから、ゆっくり伸びをしながら体を起こした。台所へ行き、ドッリプマシンに豆とフィルターをセットした。カタカナを並べると文豪にでもなった気分になる。勘違いだからなそれ。

 イヤホンを取り出して、iPadから適当に選んだ曲を聴いた。クリスタを開いて、apple pencilで絵を描いた。すっかり生活がAppleに支配されている。

 相変わらず絵は下手だが、Pinterestで見つけたイラストを横に並べて模写したり、思うままに好きなものを描いたりするのは楽しかった。絵は小説に比べて自分を削らずまどろむように浸ることができる。小説は人生で、絵は余生だ。

 

 さて、ゲームでもしようと思ったがアップデートが必要らしい。経験則から一時間近くかかることを知っていたので、しょうがないからアップデートだけ始めさせて自分は散歩に出ることにした。

 近所の神社まで、行って帰ってくるとちょうどよい距離になる。散歩にスマホを持ち出すことほど無粋なことはないからソファに放っておき、ラフな格好で家を出た。早朝は人が少ないから、マスクは着けない。

 

 道をゆく。すれ違う人も同じことを考えているのかマスクを外している。そうだよな、明け方の澄んだ空気を吸えないなら家を出る意味すらないよ。

 そこで青草が香った。湿気は酷かったが気温がマシなおかげで蒸すような感じはなく、ただ街路樹の青葉がざわめいていた。いまさらだが、香ったのは草でなく木だったのかもしれない。草葉の香りが草の香りなら、木の葉の香りは木の香りだ。

 

 さて、近所の神社は普段それなりに参拝客もいるため寂れていると称するのは少し違う気もするが、敷地の割に本殿の小さい(あるいは拝殿だけかもしれない)神社で、整備も行き届いていない。

 本殿の横にはお稲荷様が祀られているのだが、その赤色の鳥居はかなりボロく、装飾するはずの幣は雨風でほとんど千切れてしまっている。しかし管理者のいる境内で勝手に幣を設置するのも気が引けるから、きっと私ができることがあるとしたら金を払って整備を依頼することくらいだろう。

 別に巫女が好きなだけで神道などまるっきり信じてはいないが(ツンデレ)、それはそれとして今まで沢山の人を愛し愛されてきた場所には報いがあるべきである。救いなんてどうだっていい。信じられるのは自分だけ。だが信じないのと軽んじることは別物だ。

 

 二礼二拍手一礼、そして最後に小さく頭を下げて敷地を出る。入る時は正面からだったが、違う道を通りたかったので裏口から。

 本当に、神なんてどうだっていいのだ。私は自分で自分を救った。あるいは掬った。いつか訪れる余生まで、いまはボーナスタイムを歩んでいる。

 さきほど小説は人生と言ったが、正しくは少し違う。私は過去にひとつ人生を満足させ終えた。たまたま身体が生命活動を続けていて、ボーナスタイムとして第二の生を好きに生きているだけだ。好きに生きられるから、小説に費やそうと思った。

 

 信号を待つ間、明け方の空を眺めた。都会では広い空というだけで珍しさがある。近頃は夜出歩かないから、月を見上げた記憶が随分と遠い。月が綺麗ですねと友人と語らった日はもう何年前になるのだろう。

 ほんの少し日差しが出てきた。蒸し暑さはあるが、これが夏だと思うと多少は愛おしんでやろうとも思える。昔はどうだとか、本当の夏はとかどうでもよくて、これが今の子供達にとっての夏の記憶になるんだろうと思いながら横断歩道を渡る。

 

 うまくまとまらないしこの辺でやめてしまおう。

 これは日記だ。2千字も書くものじゃあない。

8.22

 いつかって言葉が嫌いだ。

 嫌いって言葉自体好きではないのだが、これだけはハッキリと嫌いと言っておきたい。

 

 ほとんどの場合、好きでない、あるいは苦手といった表現を使う。

 私にとって嫌いという言葉は目を背ける態度を示す言葉だからだ。広辞苑に載っている定義とは違うかもしれない。みんなが思う定義とは違うかもしれない。だから、あくまで私が使わないというだけである。

 目を背けることは、理解から逃げることだ。表現者という、最もあらゆるものを観察しなければいけない立場に立ちたいのならそれは許されない。目を背ければ表現の幅が狭まるだけだ。どんなメリットがある?気が楽になる?ああ、だから私はいつもこんな苦しいのか。なんだか創作という麻薬に飲まれてしまった精神異常者の気分になってきた。

 

 話を戻そう。

 いつかって言葉が、嫌いだ。大嫌いだ。

 目を背けてやる。一瞬たりとも振り返るものか。

 

 散々見つめた。その甘い響きに浸ってまどろむような、まるで天国にいるかのような安心感を何度も与えられてきた。

 愛おしくてたまらない。理想とする老後のようなゆったりとして柔らかな温度を感じる。

 当然だろう、幻想そのものなのだから。

 

 いつかは求めている作品を生み出せる。

 きっと、そうやって希望を抱くことは幸せだ。違和感を忘れて、いつかはきっとという言葉を信じて、先の見えない暗闇の荒野を見つめたつもりになることは簡単で、一番楽な道だ。

 夏休みの宿題と一緒だ。あるいは死が迫って初めて自分の生まれた意味探しに悶え苦しむようなものだ。選ぶのでなく、時間によって選ばされるのだ。でも、宿題も自分に向き合うのも辛いじゃないか。先送りにしたっていいじゃないか。なんだって自分から暗闇の中に飛び込まなければいけないのか。

 

 いつか、はきっと来るのだろう。

 だから、他人は勝手にそれを待っていればいいと思う。皮肉でない。本心からそう思う。だって、迎えに行くようなやつは、自ら暗闇の荒野を進みたがるようなやつは、大抵イカれてる。

 

 でも最早逃げられないのだ。

 

 いつか、時間に追われて、切羽詰まって、身を削って、そうして作る作品はなるほど面白くなるかもしれない。逆に言えば、面白い作品はそこまで自分というものを傷付けなければ得られない。

 ならば、いつかが来るまでの間に、時間に余裕をもたせて、切羽にはゆとりがあって、どこかから拾ってきたものをそっと加工するような、そうやって作られる作品は果たしてどれだけのものなのか。

 丁寧に作れば、作り方の作法というものに則れば、ある程度評価される作品となるのかもしれない。けれどきっと下らない。しょうもない。自分が認めてやれない。

 だから、後悔すると私は知っている。いつかは芸術とトレードオフだ。

 

 だから自分を追い詰める。切羽はとうに擦り切れた。身はどれほど残っているのか定かでない。もはや自分の中に言葉は禄に残っていない。それでもまだ切り出せるものがある。

 辛いに決まっている。苦しいに決まっている。だけどこれ以上の快楽は肉欲からも酒からも得られない。脳内麻薬に依存した精神異常者だ。

 

 時折いつかという言葉が脳裏をよぎる。

 ただ美しいもの、良いものを作っていれば、いつの日か自分を満足させてやれる作品を作れるのではないかと。

 とても甘美な響きがある。日常の延長線として生が充実するならばどれだけ幸せなことか。

 

 けれど、そうして我が身大事に生み出した作品を、罪を抱えて、往生できる自信がない。

 そのたびにこうして叫ぶ。

 

 いつかは今だ。

 生きたふりをするな。生きろ。

8.21

 似たようなことをずっとグルグル考えている。

 きつい。苦しい。つまりはいつも通りで、この感情にはどうせひとりで向き合うしかない。

 誰も見ないけれど誰か見る可能性のある場所を探すとここに辿り着く。

 

 2つ連続で小説を投稿した。

 この言葉で完結してしまいそうだ。これ以上語ろうとすると、途端にタイプする指先から力が抜ける。キーボードが嫌に重く感じられる。現代における失語症とさえ言えるかもしれない。

 なんだか気取った言葉遣いを選びそうになってしまうことすら嫌気が差す。いつだってそうだ。私は物語を書けたことがない。ただただ自分を書いてきた。

 

 2つの小説のうち、片方は衝動的に書き出して3時間もかからず終わった短編で、もう一方は半年以上メモ帳で育ててきた短編だ。

 ひとつ目は、まあいいんだ。衝動で書いたものなんて酔って曰う戯言みたいなものだし、評価もいらない。良かったというコメントに本当か?と問いかけたくすらなる。

 内容もかなりふざけた話から出発していて、むしろ今どきはああいったものの方がウケるのかもしれない。

 

 ふたつ目の小説が今の苦しさの過半を生み出している。メンタリストとかお笑い芸人を叩くことに夢中になっている世間への気疲れとかもあるけど、それだけならここまで打ちのめされなかった。

 小説で語るべき言葉と、その外で語ることが許される言葉がそれぞれある。ほとんどは、前者だ。だからどれだけ辛くてもここに吐き出せない内容もある。

 とにかく、自分を殺したかった。死にたいのではない。私が私に対して定義したこの生の意味を、目的を果たして、よし死ぬかーって言わせてやりたかった。

 わざわざ誰かに言うことでもないから語らないが、私にとって死は老衰だとか若くして宣告される癌とかではなかった。

 

 あらゆる点で自分が否定できない作品を認識すること。

 

 ああ、俺がこの世界に存在した意味はこれで果たせたな、と。そう思える作品があれば、私は笑顔で死ねる。物理的に死ぬのかは分からない。わざわざ痛いことをする趣味もないから、都会の喧騒も、ネットの世界も、何も関係ないところでひとり風を食んで過ごすような死に方をしそうだ。

 死にこだわっているのではなく、生へのこだわりを捨てられるという意味での死を求めてるんだろうな。

 

 言葉を吐き出している内に段々と落ち着いてきた。

 核心的なことも何が辛かったのかもちゃんと書いていないけれど、このあたりで終わってしまおう。

 そうだ。本当は、