8.22
いつかって言葉が嫌いだ。
嫌いって言葉自体好きではないのだが、これだけはハッキリと嫌いと言っておきたい。
ほとんどの場合、好きでない、あるいは苦手といった表現を使う。
私にとって嫌いという言葉は目を背ける態度を示す言葉だからだ。広辞苑に載っている定義とは違うかもしれない。みんなが思う定義とは違うかもしれない。だから、あくまで私が使わないというだけである。
目を背けることは、理解から逃げることだ。表現者という、最もあらゆるものを観察しなければいけない立場に立ちたいのならそれは許されない。目を背ければ表現の幅が狭まるだけだ。どんなメリットがある?気が楽になる?ああ、だから私はいつもこんな苦しいのか。なんだか創作という麻薬に飲まれてしまった精神異常者の気分になってきた。
話を戻そう。
いつかって言葉が、嫌いだ。大嫌いだ。
目を背けてやる。一瞬たりとも振り返るものか。
散々見つめた。その甘い響きに浸ってまどろむような、まるで天国にいるかのような安心感を何度も与えられてきた。
愛おしくてたまらない。理想とする老後のようなゆったりとして柔らかな温度を感じる。
当然だろう、幻想そのものなのだから。
いつかは求めている作品を生み出せる。
きっと、そうやって希望を抱くことは幸せだ。違和感を忘れて、いつかはきっとという言葉を信じて、先の見えない暗闇の荒野を見つめたつもりになることは簡単で、一番楽な道だ。
夏休みの宿題と一緒だ。あるいは死が迫って初めて自分の生まれた意味探しに悶え苦しむようなものだ。選ぶのでなく、時間によって選ばされるのだ。でも、宿題も自分に向き合うのも辛いじゃないか。先送りにしたっていいじゃないか。なんだって自分から暗闇の中に飛び込まなければいけないのか。
いつか、はきっと来るのだろう。
だから、他人は勝手にそれを待っていればいいと思う。皮肉でない。本心からそう思う。だって、迎えに行くようなやつは、自ら暗闇の荒野を進みたがるようなやつは、大抵イカれてる。
でも最早逃げられないのだ。
いつか、時間に追われて、切羽詰まって、身を削って、そうして作る作品はなるほど面白くなるかもしれない。逆に言えば、面白い作品はそこまで自分というものを傷付けなければ得られない。
ならば、いつかが来るまでの間に、時間に余裕をもたせて、切羽にはゆとりがあって、どこかから拾ってきたものをそっと加工するような、そうやって作られる作品は果たしてどれだけのものなのか。
丁寧に作れば、作り方の作法というものに則れば、ある程度評価される作品となるのかもしれない。けれどきっと下らない。しょうもない。自分が認めてやれない。
だから、後悔すると私は知っている。いつかは芸術とトレードオフだ。
だから自分を追い詰める。切羽はとうに擦り切れた。身はどれほど残っているのか定かでない。もはや自分の中に言葉は禄に残っていない。それでもまだ切り出せるものがある。
辛いに決まっている。苦しいに決まっている。だけどこれ以上の快楽は肉欲からも酒からも得られない。脳内麻薬に依存した精神異常者だ。
時折いつかという言葉が脳裏をよぎる。
ただ美しいもの、良いものを作っていれば、いつの日か自分を満足させてやれる作品を作れるのではないかと。
とても甘美な響きがある。日常の延長線として生が充実するならばどれだけ幸せなことか。
けれど、そうして我が身大事に生み出した作品を、罪を抱えて、往生できる自信がない。
そのたびにこうして叫ぶ。
いつかは今だ。
生きたふりをするな。生きろ。